あおい荘の食堂は、これまでにない緊張感に包まれていた。
* * *
昼食時。
気を取り直したあおい、菜乃花と共に、つぐみも慌ただしく動き回っていた。 直希は節子にしがみつかれたままで、身動きがとれなかった。やむを得ずテーブル席に座って辺りを見渡すと、入居者たちの心配そうな視線を感じた。「……と言うことで、この方が今日からあおい荘に入居されてきた、大西節子さんです。そしてこちらが、娘さんの安藤美智恵さん」
「あ、その……みなさん、母がこれからお世話になります。ご迷惑をかけることが多いかと思いますが、母はその……本当はとても穏やかで、優しい人なんです。ここに住まわせてもらうことが決まって、私も本当に嬉しく思い、そして感謝しております。どうか、どうか……母のこと、よろしくお願い致します」
そう言って、深々と頭を下げた。
「安藤さん、ですね。こちらこそよろしくお願いします」
栄太郎が安藤に向かい、そう言って頭を下げた。
「私はそこの直希の祖父、新藤栄太郎です。そしてこっちが妻の文江です。孫からある程度のお話は伺っております。ですがどうか、頭をお上げください。
私たちも……決して褒められるような人間ではありません。お互い事情は異なりますが、しかしここの管理人である孫と、そしてスタッフさんたちが、節子さんなら大丈夫、そう自信を持って決めたことです。ですから……孫たちを信頼して、安心してお母さんを預けてください。勿論、私たちも全力でサポートします」安藤への見事な挨拶に、文江が信じられないような顔で栄太郎を見た。
「おじいさん……どうしたんですか、急に」
「何か……変だったかな」
「いえ、その……あまりにまともなことを言ってるものですから、ちょっと驚いちゃっ
あおい荘の食堂は、これまでにない緊張感に包まれていた。 * * * 昼食時。 気を取り直したあおい、菜乃花と共に、つぐみも慌ただしく動き回っていた。 直希は節子にしがみつかれたままで、身動きがとれなかった。やむを得ずテーブル席に座って辺りを見渡すと、入居者たちの心配そうな視線を感じた。「……と言うことで、この方が今日からあおい荘に入居されてきた、大西節子さんです。そしてこちらが、娘さんの安藤美智恵さん」「あ、その……みなさん、母がこれからお世話になります。ご迷惑をかけることが多いかと思いますが、母はその……本当はとても穏やかで、優しい人なんです。ここに住まわせてもらうことが決まって、私も本当に嬉しく思い、そして感謝しております。どうか、どうか……母のこと、よろしくお願い致します」 そう言って、深々と頭を下げた。「安藤さん、ですね。こちらこそよろしくお願いします」 栄太郎が安藤に向かい、そう言って頭を下げた。「私はそこの直希の祖父、新藤栄太郎です。そしてこっちが妻の文江です。孫からある程度のお話は伺っております。ですがどうか、頭をお上げください。 私たちも……決して褒められるような人間ではありません。お互い事情は異なりますが、しかしここの管理人である孫と、そしてスタッフさんたちが、節子さんなら大丈夫、そう自信を持って決めたことです。ですから……孫たちを信頼して、安心してお母さんを預けてください。勿論、私たちも全力でサポートします」 安藤への見事な挨拶に、文江が信じられないような顔で栄太郎を見た。「おじいさん……どうしたんですか、急に」「何か……変だったかな」「いえ、その……あまりにまともなことを言ってるものですから、ちょっと驚いちゃっ
あおい荘の正面玄関に、一台のタクシーが止まった。「着いたようね、直希」「ああ。じゃあみんな、玄関までお迎えに行こう」「はい!」 * * * スタッフ会議の翌日。 直希たちは入居者を集めて、大西節子の入居に関しての説明を行った。 プライバシーを損なわないよう気を付けながら、直希は丁寧に大西の状態を伝えた。話を聞いていく中で、山下や小山、そして栄太郎も複雑な表情を浮かべていた。「それで、なんですけど……みなさんの中で、例え一人でも大西さんの入居に反対ということであれば、この話はなかったことにしようと思ってます。今の話を聞いた上で、みなさんの正直なお気持ちを聞かせてほしいのですが……と言っても、ここで反対というのは言いにくいと思いますので、後でお一人ずつ、俺の方から聞きに伺おうと思います」 そう言って締めくくろうとした直希に向かい、生田が声を上げた。「私は……直希くん、それにスタッフのみなさんが出した結論なら、構わないと思う。ここは確かに、自立した高齢者の為に作られた施設かもしれない。しかし私たちだって、いつその方のようになるかも知れない。だがそうなったと言っても、君たちは私たちを無下に退去させてしまったりしないだろう。そういう意味で直希くんたちは、あおい荘が次のステージに上がれるか、それを見定めようとしているように思えるんだ。 それに……私はこのあおい荘が、むやみに人を選別するような場所になってほしくない、そう思っている」「生田さん……ありがとうございます」「直希ちゃん、私も同じ意見よ」「山下さん……」「話を聞いて、本当は少し怖いの。でもね、直希ちゃんたちが私の為に、いつも真剣に向き合ってくれてることを思い出したら……そう思ってしまう自分が恥ずかしくなってしまったわ。ここはあおい荘、私たちの
「お父さんの診察では、軽度の認知症ではあるけども、あおい荘への入居は可能ということだった。勿論、暴言や暴力もまだ続いているし、周りの人に対してかなり警戒心を持っている。でもね、元々の原因だった脳血栓も完治してるし、今もあのような状態が続いているのは、別の要因だろうって言ってたの」「別の要因……ですか」「断定は出来ない。でも恐らくは、血栓によって一時的に記憶が混濁した時に、周囲の人の対応が怖かったんだろうって言ってた。自分では何が悪いのか分からない。自分はいつも通りのはずなのに、周りが自分のことを警戒し、無理やり入院させた」「それって……あのその、つぐみさん。以前山下さんに症状が出た時に言ってたことですよね」「よく覚えてたわね、菜乃花。そう、一時的に記憶が混濁した時こそ、周囲の人間の対応が大切なの。勿論、全ての事例に当てはまる訳じゃない。でもね、あの時の山下さんもそうだったけど、自分がおかしくなっているって自覚は、本人には全くないの。なのに周囲が自分の行動を否定して、おかしな人間扱いをする……そうすると、症状がどんどん悪化する、そういうこともあるの。 娘さんを責めるつもりはないわ。だってそんなこと、私たちのようにこの仕事に従事してる人間でも困惑するのに、何の知識もない娘さんが、いきなり豹変した母親を見てしまったら、仕方ないと思うの。 でもね、大西さんはショックを受けた。何も悪いことはしていないのに、娘に無理矢理入院させられた。人間ってね、自由を束縛されると、それを取り戻そうとするの。彼女は病院でも暴れた。ここから出せ、そう言って訴えた。周囲の人から見れば、それはかなり危険な患者に見えたと思う。 暴言に暴力、隙あらば逃げ出そうとする。だから病院は、やむを得ず拘束した。でもそれは、大西さんの中の何かを壊した」「……」「そして次に移されたのが、グループホーム。病院を退院した時、大西さんにも希望があったと思う。これでやっと家に帰れる、自由になれる、そう思ったと思う。なのにまた、見たこともないところに移さ
その日の夜。 直希の部屋で、スタッフ会議が行われていた。 テーブルを囲んでつぐみ、あおい、菜乃花が座り、直希の言葉を待つ。「ごめんね、いきなり呼び出しちゃって」「いえいえ、直希さんはいつも忙しそうにされてますです。こういう時でないと、私たちもゆっくりお話することが出来ません。どうかお気になさらずに……って、直希さん直希さん、ひょっとして私、また何かしましたですか?」「いやいや、あおいちゃんのことじゃないから。心配しなくていいよ」「そうですか……よかったです」「と言うか、最近はあおいちゃん、ミスなんて全くないと思うけど。ここに来た頃と比べても、すごい成長だよ。あおい荘の業務、ほとんど安心して任せられるようになったんだから」「料理以外は、だけどね」「こらこらつぐみ、そこで茶々を入れないの」「はいはい、ふふっ」「それで……なんだけどね、実はここしばらく、色々と動いていたんだけど」「そう言えばそうでした。直希さん、よく外出されてましたです」「やっぱりその……あおい荘に関係あることだったんですね」「うん。実はね、あおい荘に新しい入居者さんを入れようと思ってるんだ」「新しい」「入居者さん」「うん。みんなに黙って動いてたのは悪いと思ってる。でも今回の入居者さんは、ちょっと今いる入居者さんとは傾向が違うと言うか……だから俺なりに色々調べてたんだ。後、東海林先生にも」「つぐみさんのお父さんに……ですか」「うん。だからまあ、つぐみは知ってるんだけどね」「そうなん……ですか……」 菜乃花がつぐみを見る。つぐみは直希の言葉に小さく息を吐くと、あおいと菜乃花を見て言った。「二人にだけ黙っててごめんな
「毎度―っ、不知火でーす」 あおい荘の玄関先で、明日香の元気な声が響き渡った。「明日香さん、お疲れ様です」 その明日香を、食堂から菜乃花が迎えた。「なのっちもお疲れ」「なのっちー、こんにちはー」「こんにちはー」「みぞれちゃんとしずくちゃんも、こんにちは。お母さんのお手伝い?」「そうー。お手伝いー」「お手伝いー」「偉いね。二人共、もう立派なお姉ちゃんだね」 そう言って二人の頭を撫で、菜乃花が笑った。「今、なのっち一人なのかな」「あ、はい。直希さんはお出かけで、あおいさんは入浴の見守り中。つぐみさんは東海林医院で、もうすぐ帰ってくるかと」「そうなんだ。いやしかし……なのっちが一人でお留守番とは、いやはや成長したもんだよね」「ええ? そうですか?」「以前のなのっちなら、残念だけど一人でお留守番、なんてのは無理だったんじゃないかな。一人でいる間に誰かが来たらどうしよう、そんなことを考えながらビクビクと……なんて絵が浮かんじゃったんだけど」 そう言って意地悪そうに笑う明日香に、菜乃花が恥ずかしそうに頬を膨らませた。「何ですかそれ。明日香さんったら」「あはははっ、ごめんごめん。それよかさ、今一人なんだよね。それじゃあちょっとだけ、お邪魔してもいいかな。久しぶりにお姉さんと、お話ししない?」 明日香の誘いに、菜乃花は嬉しそうにうなずいた。 * * *「こらこらあんたたち、あんまりはしゃがないの」「はーい」「はーい」「全く……聞いちゃいないんだから」「はい、明日香さん。お茶、置いておきますね」「ありがとう。しっかし何だね、アオちゃんたちがいないと本当、ここって静かだよね」「そうですね。私も高齢者専用住宅だってこ
「ちょっと理屈っぽくなっちゃったけど、要するに俺が言いたいのはこれ。人生の選択肢なんていくらでもある。ましてや菜乃花ちゃんはまだ18歳。俺たちよりも遥かに多い、たくさんの選択肢があるんだ。 自分が下した決断がうまくいかなかった、そんなことでくよくよしてほしくない。勿論、うまくいくようにベストを尽くすのは大賛成。でも駄目だったとしても、それで菜乃花ちゃんの人生が否定されるなんてこと、絶対にないから。 その上で大切なのは、笑顔でいること。ネガティブな気持ちからは余りいい考えが浮かばない。常に笑顔で、何事にもポジティブになっていくこと。まあ、これが案外難しいんだけどね。でもこれは、俺自身もいつも自分に言い聞かせている」「……」「だから話を戻すけど、逃げることは恥じゃない。これは覚えておいてほしい。そして、折角自分を守る為に逃げたんだから、逃げる前より笑顔になってほしい。自分の選択が間違ってなかったと証明する為にも、自信を持って楽しく過ごしてほしい。そうしたら必ず、次の展開が見えてくるはずだから」「直希さんのお話……そんな風に言われたこと、今までなかったから少し戸惑ってます。本当にその……そんな風でもいいんでしょうか」「菜乃花ちゃんは今、次のステップに進む為の準備をしてるんだよ。生き方の問題だから、時には厳しいことも言わなければいけないこともある。でも今の菜乃花ちゃんは、戦って戦って、ボロボロになっている。今はそういう時じゃないと思う」「……」「要はケースバイケースってこと。菜乃花ちゃん、そんなに深く考えなくていいよ。菜乃花ちゃんの人生はまだまだこれからなんだ。何度でもやり直しはきくし、今よりもいい人生を歩むことだってきっと出来る。だから心配しないで、楽しく毎日を過ごしてほしい、そう思うよ」 * * *「……なるほど。直希くんらしい意見だね」 秋桜を見つめ、生田が微笑んだ。「学校に戻ると決めた時